In the Beginning

まず、ブラック・ミュージックのファンには縁遠いところから話を始めることにいたしましょう。 つまり、それはもっぱら、いまのところ白人の社会での物語なのでございます。
1950年代の前半、朝鮮戦争( 1950-1953)が一応の決着をみた時期とも重なりますが、Memphisのダウン・タウンに the Goodwyn Institute Auditorium( 1907年に「女性に法曹関係の仕事はムリだ」という偏見から、資格を持っていながら実に 7年間も待機を余儀なくされた Marion Griffinが彼女の弁護士事務所をようやく開設したのが、マディスン通りと三番街の南西の角にあった、この the Goodwyn Instituteビル内にでした。彼女はその後 1923年にテネシー州議会の議員に選出された最初の女性でもあり、辞任した 1949年まで、そこに事務所をおいていました。このビルはその後 the First Tennessee Bank Buildingとなっています)というホールがあり、そこでひとつのエピソードが生まれました。

Joe Manuel

Memphisの放送局で 1930年代から 1940年代にかけてヒルビリーのスターだった Joe Manuel( Alabama州の農村部で生まれ、まだ小さいときに家族とともに Arkansas州のデルタ地帯に移り、そこで少年時代を過ごしています。一家は小作農だったのですが、彼はまだ十代のうちに家を出てショー・ビジネスの世界に身を投じたようで、Dave Perkinsというヴォードヴィル・コメディアンのもとで歌とギター、そして聴衆を楽しませる術を学び、1930年代の初めには Arkansas州の放送局に出演するようになっていました。どうやら 1935年までに Memphisに移って来たらしく、今度は Memphisの the Claridge Hotelの WHBQに出演しています。その後 the Gayoso Hotelに WHBQは移ったりもしていますが、ケッキョク 1950年まで Joe Manuelは WHBQに出演し続けました。その間に彼は中西部でもっとも名を知られた D.J.となっています)というひとがいたのですが、その彼の番組を聴いて育った若い世代がオフの時間など、次第に彼の周囲に集まり始めるようになり、その中には Joe Manuelが認めるような才能を持った若者も散見されました。
そこで彼は、この若者達もそれなりの機会を与えられれば、リッパに音楽で喰っていけるんじゃないか?と考えたんですなあ。
そのために必要なのは、彼らの演奏をより多くの人たちに聴いてもらえる公開の場だ、と言うことで彼が交渉して獲得したのが the Goodwyn Institute Auditoriumだったのです。このアイディアには元ネタがあり、それは C&W界ではきわめて有名な Nashvilleのthe Grand Ole Opry がモデルであることはこりゃもう誰でも判りますね。
そこで、ライヴは毎週土曜日の宵に行うことになり、The Saturday Night Jamboree の名で開催されることになりました。それが 1953年のことです。

Saturday Night Jamboree

その初回は Joe Manuelと彼のバンド、そして彼の旧友でもあった Marcus Van Story( もともとはギタリストだったようですが Bass Fiddleに転向したそうです。Bass Fiddleっちゅーのがウッド・ベースのことなのかもしれませんが、そこらは不明です。そして Sun Recordsのスタジオ・ミュージシャンになりました。後に The Sun Rhythm Sectionのメンバーとして各国をツアーしている)とそのバンドからなっていました。
やがて出演者が増えるにつれ、彼らの役割は司会や狂言まわし的な存在にと変化していったようです。それでも、毎回、サイゴをシメたのは Joe Manuelだったようですが。
このThe Saturday Night Jamboree は、始まってすぐに出演者が集まり始めたようで、近隣のミュージシャンにとっては大切な存在だったのでしょう。そして、その話題が地域に浸透していくにつれ、それを聴きにくる聴衆も加速度的に増え続け、すぐに公会堂は満員御礼状態になったそうです。

Local Stars

おそらく、その盛況ぶりは言い出しっぺの Joe Manuelも想像し得なかったほどではないでしょうか?
そんな状態でしたから、このThe Saturday Night Jamboree から巣立ったミュージシャンも少なくはなく、(ブラック・ミュージック畑のワタクシにはどれも「?」なお名前ばかりなのではございますが)例を挙げると、Johnny and Dorsey Burnette、そしてそれに Paul Burlisonが加わって結成された the Rock N Roll Trio( Ted Mackの『Amateur Hour』で 3度優勝、さらにグランド・チャンピオンも獲得し、CORAL Recordsと契約、「Tear It Up 」のヒットがある)、Eddie Bond( Mercury Recordsと契約。「Rockin' Daddy 」のヒットがある)などは、ここで初めて大衆の前に姿を現した、といっていいし、Charlie Feathers( Meteor Recordsと契約。初期の「ロカビリーの」ヒットと言われる「Tongue Tied Jill 」を出しています)は常連でした。その当時は主にゴスペルを歌っていた Johnny Cashは 1954年に入ってからの常連で、Sun Recordsと契約する前の話になります。
Lee Adkins(後に Sun Recordsと契約、と資料にはありますが、現在のところ Discography上では確認できませんでした。ケッキョク録音にまでは至らなかったのでしょうか?)、Bud Deckleman( Meteor Recordsと契約、カントリーのヒット「Day Dreaming 」がある。また the Louisiana Hayride radio showでスターになった。The Complete Meteor Rockabilly And Hillbilly Recordings─ Ace 2750で「Day Dreaming 」が聴けます。他に Charlie Feathersも収録)、Harmonica Frank Floyd( Sun Recordsと契約。エルヴィスの「That's All Right Mama 」に先駆けること 3週間、「Rockin' Chair Daddy 」をリリース。それをもって彼を「ロケンロー」の始祖、とするひともいるようですが、いかがなものか)、Barbara Pittman( Sun Recordsと契約、「Two Young Fools in Love 」のヒットがある)、The Lezenby Twins( Pepper Recordsと契約。「Ooh Ooh La La I Fooled You 」はトップ 40に入った)、Lefty Ray Sexton( 1950年代を通じてバンド活動をしていたが、これといったヒットは無いみたい)、Lloyd (Arnold) McCoulough(このひとはちょと「?」なんですが、カナダでスターになったんだって)、Tommy Smith( Decca Recordsと契約し自作の「I'm a Fool 」がヒット)、Major Pruitt(後に D.J.となる)、Johnny Harrison( Nashvilleに移り、ソングライターになってます)に Larry Manuel(このひとは Joe Manuelの息子。Stomper Time Recordsから「Don't Try to Call Back Tomorrow 」をリリース)・・・これがみなThe Saturday Night Jamboree の出演者だったのです。

Meltin' Pot

そのようにスター(と言われても、ワタシゃあ、そっち方面に詳しいワケじゃないので、受け売りだす)を輩出したThe Saturday Night Jamboree ですが、それが地域のミュージシャンに与えた影響としては、単にデビューの機会を与えた、というだけには止まりません。その役割の中で、もしかすると一番大きかったのではないか?とも思えるのが、バック・ステージ、つまり楽屋などでのミュージシャン同士の交流だった、と言われています。
いずれもウデに自慢の若者たちが、かと言ってヘンにライヴァル心を剥き出しにガンを飛ばし合うこともなく、それどころか、新しいワザなどを和気アイアイと教え合ったりしていたようで、それが地域全体のレヴェルをアップさせていったようです。
また他の出演者の新しい音はすぐ話題となり、それを採り入れてまた前進してゆく。そして、そのヘンが判る敏感な聴衆も揃っていたことからThe Saturday Night Jamboree は Memphisの音楽にとってきわめて重要な存在となっていったのです。

Rockabilly

そのようにして、単なる音楽好きのアマチュアのレヴェルから「レコーディング・クォリティ」に達するようになり、次々と Memphis周辺のレコーディング・スタジオなどでその音楽を吹き込むようになり、後になって、それらの音群は Rockと Hillbillyの合成語である Rockabilly と呼ばれるようになったんだとか。ただし、このヘンの「ロケンロー」の起源とか、「ロカビリー」の始まりは、ってえ話題になると議論百出、喧々囂々、我田引水、酒池肉林、ってなワケでいつどこからどのよーな刺客が現れるかもしれないので、「あくまでも伝聞である」とおコトワリいたしておきましょ。

Marshall Erwin Ellis

さて、このよーにしてThe Saturday Night Jamboree が思いのほか成功してくると、Joe Manuelは出演希望者の選別やら、各方面での調整などに忙殺されるようになってしまい、ハッキリ言って彼の手に余るようになって来たため、マネージャーをつけたい、と考えるようになりました。
そこで彼が交渉したのが、古くからの親しい友人、Marshall Erwin Ellis( インディーズの、なんてゆーと最近のニホンの独立系みたいだけど、 自分のレーベル RIVERFRONT と ERWIN を所有するプロデューサーでもあり、Kimball Coburn のヒット、「Dooby Oby Pretty Baby 」を手がけている。またあまり知られていない Hoyt Axtonという歌手の「It's a Little More Like Heaven Where You Are 」もプロデュースしている。この曲はカントリーのヒットとなり、その後ほぼ 40年にわたって彼にロイヤリティをもたらした!)でした。Ellisは理髪店のオーナーでもあり、一時は自動車の販売にも手を出したことのある「ビジネスに強い」タイプのニンゲンであり、説得の結果、彼のマネージメントを引き受けてくれることになったのでした。それ以降 Ellisは the Saturday Night Jamboreeにとって様々な役割を果たす存在となったのです。
この Marshall Erwin Ellisはまた出て来るから覚えといてねん。

The End of Jamboree

ところが 1954年の末に the Goodwyn Instituteのオーナーから申し出があり、公会堂を補修するために、しばらくの間、使用出来なくなる件に関して理解を求めてきました。そこで Joe Manuelは、まず、適当な代替施設が見当たらない上、主な出演者たちもレコード会社との契約を果たしたことだし、そこから生まれたヒット曲がオン・エアされている状態なので、そこで The Saturday Night Jamboreeの幕を引くことを決断したのでした。

その 2年間で確実に Memphisの音楽状況は変わり、別に彼がそう意図したワケではないにせよ、結果として Rockabillyの花を咲かせたことになるのかもしれません。
The Saturday Night Jamboreeに登場し、スターとなって行った者たちばかりではなく、そのバンドのメンバーとして支えていた層もまたレヴェルをグンと上げて、Memphisの複数のレコーディング・スタジオでのセッション・ミュージシャンとして、このエリアの音楽的土壌をより一層豊かなものにしていったのではないでしょうか。
The Saturday Night Jamboreeのバック・ステージ、楽屋で生まれた音たちが、後に世界に出て行くことになった、とまで言い切るのはちょっと大袈裟かもしれませんが、しかるべき時期に、しかるべき機会を与えられて世に出た才能を思えば、この 2年が Memphisの行方を決めた、と言ってもいいのかもしれませんね。

Jamboreeをやめた後の Joe Manuelは次第にショー・ビジネスからは身を引いて行きますが、それでも D.J.は続けていたようです。Marshall Erwin Ellisは、彼のマネージャーをやめましたが、二人の友情は変わることなく、1959年の Joe Manuelの死まで続きました。

Estelle Stewart

Estelle Stewartは 1918年(あるいは 1919年)に Tennessee州 Middleton( Memphisから State Highway-2で東へ 90kmくらいの街です)で Ollieと Dexter Steweartという両親のもとで生まれ、16才までその街で成長しました。音楽、なかでもポップスが好きで、家族でゴスペルのカルテットを組み、そこで歌い、オルガンも弾いていました。

一方、1923年の 1月 5日、遠く離れた Alabama州 Florenceでひとりの男の子が生まれています。それこそ後に Sun Recordsを興すことになる Sam Phillipsでした。

Estelleは 1935年には教員資格を得るために Memphisの州立大学に入っています。そこで知りあったのが、将来の夫となる Everett Axtonでした。
彼女は Middletonに戻り、12才年下の弟 Jimの一年生の時の「先生」となっています。
1941年には大学で知りあった Everettと結婚して Memphisに移り、自らの学校(と資料ではなっていますが、むしろ「教室」に近いスケールかもしれません。あるいは「私塾」みたいなものか?)を持って教壇に立っています。
やがて子供が生まれると、彼女は家庭に入り、育児に専念したようですが、その二人の子供があまり手がかからなくなった、ということからか、1950年には the Union Planter's Bankに出納係として勤め始めています。
そしてそこに弟の Jimも Middletonから出て来ました。この Jimは 1930年 7月29日に生まれています。父の Dexterは農園を経営し(そ、Stewart家は「白人」なのですよ)、サイド・ビジネスとして大工や煉瓦職人としての仕事も受けていたようですが、その父が Jimに 10才のときにギターを買ってくれました。彼は毎週土曜日に放送されていた Nashvilleからの the Grand Ole Opryを聴いて( The Saturday Night Jamboreeのモデルとなったヤツね)、耳から学んでギターを練習していたようです。
また時には友人と地域のスクエア・ダンスの催しなどでも演奏していたようですが。

1945年の 6月には、その Jimより 7才年上の Sam C.Phillipsも Memphisのラジオ局、WRECのアナウンサー兼メインテナンス技術者として働き始めています。
同じく1945年の Los Angelesの街で、生まれ育った遥かな Oklahoma州 Tulsaから 1942年に California州に移ってきて、まず Jukeboxのサーヴィスの仕事で業績を伸ばし、やがてはそれらのジューク・ボックスに供給するシングルの入手難から、そこにビジネス・チャンスを見出したとされる Bihari兄弟が、自らひとつのレーベルを立ち上げました。
当初は Modern Music labelと称していたようですが、やがて Modern Recordsとなり、それ以降さまざまな支線として 1950年には RPM、1953年の Flair、1954年には Crownを計画し 1957年に実行、1958年 Kent、1959年には Rivieraと、一大グループの様相を呈してゆきます。
その Bihari Brothersの四人、Saul、Jules、Joe、そして末っ子 Lesterが分担して事業に当たっていたようですが、Lesterだけは重役というよりは、セールス&プロモーション・ディヴィジョンのヘッドという「軽い」位置にいた(社長は長兄の Saul Bihari、副社長に Julesと Joe)ようで、その彼がやがてウェスト・コーストを遠く離れた Memphisで新しいレーベルを立ち上げることになります。
蛇足ながら、ウェストコーストではもうひとつ言及しておくべきレーベルがあります。
それは 1948年に Lew Chuddによって設立され、Max Freitagを最高顧問に迎えていた Imperial Recordsです。でも、今回のテーマ(?)である Memphisとのつながりは薄いので、深くツイキューはしないどきますが。

Jim Stewart

Jim Stewartが Memphisに出て来たのは高校を出てからで、本人はウェスタン・スィングの Bob Willis and Texas Playboysや Pee Wee Kingに Tex Williams、Moon Mullican、 Ernest Tubb、そしてそっち方面にあまりキョーミの無い「門外漢」のワタクシでも知ってるくらい有名な Hank Williamsなどの影響を受けていたらしく、カントリー・ミュージックのフィドル奏者になりたかったようです。
Sears Roebuck(有名なアメリカのカタログ通販の会社)で働くかたわら WDIAの早朝のプログラムで登場する Don Powellの Country Cowboysの一員として演奏もしていたようです。

このころ Sam Phillipsは 1949年10月 1日、Memphisの Union Avenue 706番地の店舗の賃貸契約にサインし、Sun Recordsの前身である自らの「Memphis Recording Service」の準備を始め、翌1950年の 1月 1日に開業し、当時はまだローカルなミュージシャンだった B.B. Kingや Howlin' Wolf、そして James Cottonなどのレコーディングを始めています。
1950年 8月 1日には、Joe Hill Louisの「Gotta Let You Go / Boogie In the Park」が Sam Phillipsと、Memphisの D.J、Dewey Phillipsの二人の「Phillips」によって発足した Phillipsレーベルからリリース。

そして Bihari Brothersの Lester Bihariが Memphisで新しいレーベル Meteorを発足させたのが 1952年でした。
その年の11月に行われた同レーベルの最初のセッション(スタジオでは、という意味か?─ただし Elmore周辺の資料ではそのヘンの詳細がかなり異なっており、一例として Bobby Robinsonの Fire/Furyコレクションに同封された Discographyでは 1月*としています)は、Elmore Jamesの「I Believe / I Held My Baby Last Night」 Meteor 5000です。バックを務めたのは The Broomdusters( J.T.Brownのテナー・サックス、Johnny Jonesのピアノ、ドラムは Oddie Payne)でした。およそ 30分で上記以外にも 2曲の録音がなされた、としている資料もあり Meteor 5003の「Baby What's Wrong / Sinful Woman」がそれだと思うのですが、資料によっては Meteor 5003を、翌1953年の 2月に Chicagoで録音されたもの、としているものもあります。
*─ 翌1952年 1月には Mississippi州 Cantonでの Joe Bihariによるレコーディング。ここではポータブル・テープ・レコーダーが使われ、Cantonのナイトクラブ the Club Bizarreで録音された、と言われています。ピアノに Ike Turner、ドラムは氏名不詳。
この時には Please Find My Baby、Hawaiian Boogie、Take a Little Walk with Me、Dust My Broomなども録音されたようですが、Please Find My Babyと Hawaiian Boogieの二曲は Kent LP-9001などに収録されています。他はおそらくテープが散逸したか、これもまたテープに上書きされて消えた可能性があるようです。
この時の二曲のマスター・テープは後( 1953年 5月)に Los Angelesの Universal Recording Studiosでベースとドラムをオーヴァーダブされて Meteor master #MR 5017となったそうです。
同じく、これも氏名不詳のサックス・プレイヤーを加えて Lost Woman Blues( Please Find My Babyの Ver.2。ただしこれは Flair 1022として一度は市場に出ているらしいのですが、Lillian McMurryから、いまだに Elmore Jamesは Trumpetの契約下にある、という抗議を受けてすぐに回収されています。結局ちゃんとリリースされたのは 1954年になってからのこととなります)、Lost Woman Blues( Please Find My Babyの Ver.3。こちらはやはりベースとドラムを後にオーヴァーダブされて Meteor master #MR 5016となりましたが、それは結局リリースされず、オーヴァーダブされていないオリジナルの方が Flair 1022として後にリリースされています)、Hand in Hand(これは Flair 1031としてリリース。また Kent LP 9001にも収録されています。)を録音。
少なくとも Elmoreに関しては、そちらのほうが信頼出来「そうな」感じですが・・・

Jim Stewartは 1950年の後期には the First National Bankで職を得ています。しかし 1953年には陸軍に入隊(朝鮮戦争が終った年です。つまり彼は「せっかく」 The Saturday Night Jamboreeという絶好の機会が存在した時期に軍務についていたワケですなあ)。そこでは通常の軍務ではなく、音楽演奏を主とした特別な任務につき、もっぱらヴァイオリンを弾いていました。
ただし、手元の資料ではその任地についての記述が無いのでなんとも言えませんが、もしかして近くにいた可能性も否定できませんね。

その 1953年の夏には、Sam Phillipsのもとに一人の若者が現れました。母親の誕生日のプレゼントにするため、吹き込みに来たエルビス・プレスリーです。
彼が歌った「My Happiness」と「That's When Your Heartaches Begin」の 2曲を聴いてプレスリーの資質に注目した Sam Phillipsは、その後10曲をプロデュースしています。
さらに 1955年 6月 1日には、Johnny Cashのデビュー・シングル「Cry! Cry! Cry! / Hey! Porter」を発売。
しかし 1955年11月 1日、プレスリーの人気は上昇しているにもかかわらず、セールス・プロモーションを全国展開するだけの「戦略」も「戦力」も持たない Sam Phillipsは、結局プレスリーのシングル 5枚・10曲の版権と専属契約とをまとめて RCAに 35,000ドルで売却してしまいました。

また Jim Stewartは金融関係の州立学校に入り、1956年に卒業しています。そして銀行でふたたび働き始めたようですが、その間もフィドルは弾き続け、Memphis周辺をウェスタン・スィングのバンドに加わって演奏してまわっておりました。
なかでも Memphisの Lamar Avenueにあった the Eagle's Nest(って、もしかするとイマもあるのかもしれまへんが、この Eagle's Nestには 1954年 8月 7日、エルヴィスもその生涯で 3度目のコンサートとして出演しています)にはよく出演していたようで、そこで彼のセンスが鍛えられたのかも?

Sun Records

Sun Recordsは1950年にスタートした「Memphis Recording Servis」(そのモットーは "We Record Anything - Anywhere - Anytime."でした)から発展して1952年に設立された Sam Phillipsのレーベルですが、1953年に、Big Mama Thorntonの「Hound Dog」へのおちゃらけたアンサー・ソング「Bear Cat」を歌う Rufus Thomasのおかげで二重の意味で Sunの存在を世間に知られることとなります。
リリースとともにその曲はチャートを昇りつづけ、ついには R&Bチャートの 3位にまで到達したのです。
しかし、オリジナルの「Hound Dog」に肉薄するあまり(?) Jerry Leiberと Mike Stollerからなる原曲の「著作権」に抵触する、として訴訟沙汰になってしまったのでした。
その Rufus Thomasは、1917年 3月26日、 Mississippi州 Cayceで生まれ(Alt. 3月28日、Tennessee州 Collierville生まれ?)家族とともにすぐ Memphisに移ったらしく、それもヴォードヴィル芸のテント・ショーでの生活を送るようになり、1930年代の中頃にはすでに the Rabbit Foot Minstrelsに所属するプロフェッショナルなコメディアンでした。
彼の「音楽」の初録音は 1941年だったようですが、それ以上に Memphisのミュージック・シーンに関わってくることになるのは、その当時としてはそれほど多くなかった「黒人経営者によって運営され」ていた放送局のひとつ WDIAの D.J.となってから、とするのが妥当でしょう。
また彼は Beale Streetでのタレント・ショーも組織し、将来のブルース・シーンに大きな影響を与えることになります。そして、あの Carla Thomasの父でもあります。

Indies

さて、一方の Jim Stewartは、ってえと、次第に自分たちの音楽をレコード化したい、という野心を持つようになったようで、1957年には何曲かを吹き込みたいのだが、という提案を Sun Recordsをはじめとする Memphis周辺のレコード会社に持ち込んでみました。
しかし、どのレーベルも芳しい感触を返してはくれません。ところが理髪店のオーナーで、かつ自らもフィドルを演奏する人物が手をさしのべてくれたのです。
カンのいい方は「それって・・・」と気付いておられるやもしれませんが、それこそが、「 Jamboree」の Joe Manuelのマネージメントをてがけ、素晴らしい経営手腕を発揮した Marshall Erwin Ellisその人でございます。
Riverfrontと Erwinという二つの自分のレーベルを持っていた Ellisは Jim Stewartに録音するための機材を貸してくれた上に、小さなレーベルを経営してゆくコツやその他さまざまな収入を確保する方策などを授けてくれることになります。

さて、「あの」 Bihari Brothersの Memphisでの橋頭堡となるか、と思われた Lester Bihariの Meteor Recordsのほーはいったいどうなってたでしょ?
あの Elmore James(シングル三枚 6曲、あるいは異説では他に 2曲が未リリースか?)や Joe Hill Louis、Sunny Blair、などをリリースして行ったのですが、経営的には成功とは言い難く、1957年にあの「Bear Cat」で物議を醸したのをこれっぽっちもハンセーしてなさそーな芸名「 Rufus "Bear Cat" Thomas with The Bearcats」(いいドキョウしてるよねー)の「The Easy Livin' Plan / I'm Steady Holdin' On」( Meteor 5039)や、なんと Fenton Robinsonの( with the Dukes)「Tennesse Woman / Crying Out Loud」( Meteor 5041)もリリースしているのですが、Meteor 5046の Steve Carl with The Jagsを最期に、5年に及ぶ活動の幕を降ろしたのでございました。
ある意味、時流に乗り損ねた、と言えなくもないのですが、あるいは Lester Bihariの嗜好が Bluesに偏っていたためかもしれません。

Jim Stewartは Ellisが貸してくれた録音機材を妻の伯父さん(叔父さん?)宅のガレージに持ち込み、さっそく録音にいそしみ始めました。そしてそれがようやくモノになったのは 1958年になってからだったようです。
その時のナンバーは C&Wのナンバーで、「 Blue Roses」といい、Fred Bylarという名前の D.J.の作品でした。これは後に Satellite 100としてリリースされています。
この時 Jimは前述の Bylarともうひとり、リズム・ギター担当の Neil Herbertの三人でイコール・パートナーとして新しいレーベルを立ち上げ、ひとり 300〜 400ドルを出資していました。その意味では、この処女作には多少の期待はあったのでしょうが、D.J.でもある Bylarが自分の勤める KWEMでそれをオン・エアしたものの、さしたるセールスには結びつかなかったのです。

それでも三人はこの Omni Streetのガレージ(クルマ二台が入る広さだったそうです)の中、ポータブルのオープン・リール・テープ・レコーダーでレコーディングを続けました。
しかし、機材による限界を感じた彼らはなんとか Ampex 350モノーラル・テープ・レコーダー(1944年11月 1日に Alexander M. Poniatoffによって設立された録音機器のメーカーで、Alexanderの「A」、ミドル・ネームの「M」、Poniatoffの「P」、それに Excellenceの「Ex」をつけたもの、と言われていますが、異説では Experimentalだという。1947年にはハリウッドの Radio Centerで最初のレコーダー、Ampex 200Aを発表。1948年の 4月24日には ABCに 1号機を納入。1949年 5月には大幅に改良されたニュー・モデル Ampex 300を発表。1950年秋にはその廉価版ともいえる Ampex 400も発表。そして 1953年 4月には、その Ampex 400を改良した Model 350 audio recorderを発表しています。これらの Ampexプロフェッショナル用機器は、一般家庭用のポータブル・テープレコーダーの、ものによっては 100倍以上の価格で、それはちょうど最近の DVハンディ・カムと、およそ 1,200万円ほどはする業務用 Hi-Vision ENGの価格の違いに匹敵します。彼らが最初に吹き込んだのがおそらく民生用のポータブル・テープ・レコーダーだと思うのですが、それに対し Ampexはテープ速度も早いので高域特性も良く、精度・耐久性など、どのスペックをとっても民生用が足元にも及ばない「性能」を持っていました。
ただし幅広のテープに上下に 8層積み重ねた録音ヘッドで 8チャンネル・マルチ・トラック!なんてえ時代はまだ先のことで、この時期はバンド全員が揃って一発ホンバン、途中でダレかがミスったら、また最初っから、というある種「スタジオ・ライヴ」みたいなレコーディングだったのです)
を導入したい、と考えたのです。
そこで Jimが思いついたのが姉の Estelle Axtonに泣きつく・・・もとい、相談してみることでした。
ま、ありていに言えば、彼女の家を抵当にして融資を受けよう、ってことだったのですねえ。それに対して姉は彼をシバきもせず(?)夫を説得し、抵当権を設定し融資へとこぎつけたのでございます。
さっそく Herbertと Bylarは当時 8,000ドルから 9,000ドルはした Ampex 350を購入しました。

Satellite

さらに Estelleは 2,500ドルで、自宅にレコード・レーベルを設立したのですが、1957年に打ち上げに成功し、話題となっていた世界初の人工衛星、ソヴィエト連邦の Sputnikにあやかったのか「 Satellite」という名前を付けています。
・・・と、ここで正式に Satelliteがよ〜〜〜〜やく登場するのでございますよん。
1958年にはもっと録音機材を充実させたい、ということで Jimはさらなる融資を求めてきました。彼女はそれに応えて第二抵当権も設定して、自分が勤めていた Union Planters Bankから融資を引き出し、さらに投資を増加させています。
その時点でレーベルは Memphisにあった彼女の自宅から、Memphisの北東の郊外に位置する Brunswickに移されたのでした。

翌1959年の春には、ついに「歴史的」な転換点(の始まり?)が訪れます。
彼らは「初めて」黒人のグループ The Veltones(ここでまた、まったくの蛇足をイッパツ。Jay Graydonのことを知らない方にはまったくキョーミの無い「道草」ではございますが、彼が 1964年ころ、ギター三本!とドラムっちゅー構成で作った最初のバンド「The Veltones」とはモチロンまったくカンケーございません。こっちの Veltonesはポップスやらサーフ・ミュージック、そしてノリのいい R&Bをレパートリーとしておよそ 2年間ほど続いたようですが、その録音は残っていないそうでございます。─本人のインタビューによる)のレコーディングを行ったのでございます。つまり、このレーベルの黒人音楽との関係は、ここに始まった、と言うワケです。
ただし、その The Veltonesの「Fool in Love / Someday」は商業的な側面からは成功とは言い難く、1959年の夏にリリースされ、 9月には Mercury Recordsが 400から 500ドルを前払いしてそのディストリビューションを買って出たのですが、結局それ以上の収入にはなりませんでした。
そしてこの年には再び社を Memphisに戻しています。今度は月150ドルで East McLemore通りと College通りの角、926番地にあった古い Capitol Movie Theaterを借りて社屋としました。
Estelleはその映画館だった建物のかっての売店を利用してレコード・ショップを始めていますが、それが多少は稼ぎ出す日々の「上がり」は経営をけっこう助けていたようです。
さらに彼らは映画館の改装に着手し、館内は次第にその姿を変えていきました。天井からは吸音材として垂れ布が下がり、かっての舞台上にはミキシング・ブースが設けられ、床にも吸音のためのカーペット、黄麻布による遮音壁、フラッター・エコー(完全に平行な壁面の間で発生する定在波のイタズラで、手を叩いた時など、その特定の周波数にエコーが収斂していく現象で、いわゆる「鳴き竜」現象。それを防ぐためには平面に多少角度をつけて音波が同じとこで反射し合わないようにすればよい)の発生を抑えるために漆喰の壁の表面には波打つような加工を施して行ったのですが、天井の垂れ布の施工以外はすべて自分たちで完成させています。結局この改装には 200ドル程度しか掛けていません。

Jerry Wexler

それでも、この一連の移転・改装のために新たな原資が必要となり、一般にも投資を募ってはみたものの、結局「ほなワシが」っちゅうモノズキ(?)は現れず、困った時の姉頼みで、またもや家屋を抵当に 4,000ドルを工面した、と資料にはあります。ありますが、はたしてアメリカの銀行における融資の実際はどーなっておるのでしょうか?ひとつの物件に対し、評価額の枠内で小刻みに貸したってえことなのかな?ま、それがどーしたってえことじゃないんですが、なんだかフに落ちないもんで。

1960年 9月 1日、Sam Phillipsは Madison Avenue 639に新スタジオをオープン。

そしてついに Satelliteにも幸運が巡って来る時が来ました。Sunで例の「 Bear Cat」を吹き込んで(その後 Meteorでは Rufus "Bear Cat" Thomas名義で吹き込んだ) WDIAの D.J.だった男、Rufus Thomasが、まだ 17才だった(Alt. 18才)自分の娘 Carlaとデュエットで吹き込んだナンバー「Cause I Love You」が Memphis地区限定ながらも「ローカル・ヒット」となったのです。
それに注目したのが Atlantic Recordsの副社長だった男、Jerry Wexler( 1917年 1月10日、New Yorkの Brooklynで生まれたユダヤ系の白人で 1930年代は貪欲なレコード・コレクターとして、1940年代には Billboardの寄稿者として知られていますが、1953年には在 Washingtonのトルコ大使の子息であった Ahmetと Nesuhi Ertegun兄弟が 1947年に設立した Atlantic Recordsに、シニア・パートナー並びにプロモーションと A&Rマンとして参加しました。同社ではすぐに頭角を現し、プロデューサーとして、重役として、時にはソングライターとして活躍しています)でした。
彼は即座に向こう 5年間の Satelliteの「製作」を 5,000ドルで Atlantic Recordsに供与する契約を結びます。
Carla Thomasは今度はソロで Satelliteに「Gee Whiz」を吹き込みましたが、Jerry Wexlerは直ちにその録音に関する供給権は Atlanticにあることを主張しています。その結果、「Gee Whiz」は Atlanticを通じて全国に供給され、ビルボードの 5位にまで昇り、これが Jim Stewartと Estelle Axtonにとっての「初の」全米ヒットとなったのでした。

the STAX

ところで Estelle Axtonの息子、Packyはテナー・サックスを吹くようになっており、the Royal Spadesというロックン・ロール・バンドに参加しておりました。やがて Packyはギターの Steve Cropper、同じく Charlie Freeman、ドラムの Terry Johnson、バリトン・サックスの Don Nix、そしてベースの Donald "Duck" Dunnなどと交流するようになり、その高校生からなるメンバーがほとんどそのまま the Mar-Keysを形成しています。そして吹き込まれたインスト・ナンバー「Last Night」が「Gee Whiz」に続くビッグ・ヒットとなったのでした。
ところが、この曲がチャートを昇り始めたころ、Jim Stewartは Californiaにある「別な」 Satelliteレコードの存在に気付き、そのままでは訴訟沙汰は避けられない、と判断した彼はその社名を変更する決断をしたのです。
そこで Stewartのアタマ二文字「 ST」と姉の Estelle Axtonの苗字のアタマ二文字「 AX」を組み合わせた「 STAX」を新しいレーベル名として採用しました。
時に 1961年、「栄光の」あの名前、Staxがその生を受けたのです。

Johnny Jenkins

その Stax studioに近いところにひとりのキーボード奏者が住んでおりました。
まだ若いピアニストだった Booker T. Jonesはやがて the Mar-Keysの Steve Cropperと Donald "Duck" Dunn、そして Al Jacksonとともに「Stax Sound」の中核をなしてゆくことになります。またそのグループは Booker T. and MG'sとして( MG'sの MGは Memphis Groupだそうでございますよ)として吹き込むようになり、あの「Green Onions」の大ヒットを飛ばすことに!
しかし 1962年の「特筆すべきこと」は別なビッグ・ネームの出現かもしれません。

その前にこのひとのことを少し。
みなさまは Johnny Jenkinsをご存知でしょうか?
1939年、Georgia州 Maconで生まれ、Swift Creekと呼ばれるド田舎地帯でもっぱらバッテリーを電源とする Portable Radio(つまり、電気も引かれてないイナカっつーことでしょか?)でブルースや初期の R&B、アーティストとしては Bill Doggettや Bullmoose Jacksonなどを聴いて育った、という彼は 9才の時、ご他聞に洩れず、シガー・ボックスとゴム・バンドでギターを自作したのですが、(元々左利きなのか、それとも偶然そーなっただけかは資料からは判りませんでした)普通とは逆の左向きに持ち始めたようで、それは姉からホントのギターを買ってもらった後もそのままだったようです。
その Johnny Jenkinsが 1962年に Atlanticのために Staxのスタジオに録音に来たのです。
Georgia州のローカルな放送局に出演していた彼を最初に認めたのは、後に Maconで Capricorn Recordsを設立することになる Phil Waldenかもしれません。
彼は Johnny Jenkinsとそのバンド the Pinetoppersのブッキングも手がけるようになっています。
・・・と、ここで、その Phil Waldenについてもウンチクをタレたいとこですが、ま、彼の場合は Maconがメインなんで、今回はパス。

その Johnny Jenkinsを迎えた Stax Studioでは、「あの」奇跡が起きる・・・

These Arms Of Mine

その日、Johnny Jenkinsはおそらく「Love Twist」を吹き込んだのではないかと思うのですが Jenkinsの調子が良くなかったか、あるいは逆に順調に進んで思いがけず早く終ってしまったのか、たぶん前者だろうとは思うのですが、およそ 30分ほど余裕が出来たとき、プロデューサーは( Jim Stewartだった、とする資料もあります)彼と一緒にスタジオにやってきていた Johnny Jenkinsのバンド the Pinetoppersのヴォーカリスト(バンドでは Jenkinsがギタリストとして全体をリードしていたようです)で、お抱え運転手でもあった男に、「時間あるからキミも歌ってみる?」てなことを言ったんでしょか?すると男は、それじゃあこの歌を、ってんで自作の曲を出してきました。
そしてレコーディング・・・
その曲こそは、いまだにその時のオリジナルを超えるカヴァーが(おそらく、これからも)存在しない稀代の名曲、名唱となったのです。

この両腕の寂しさ、哀しみ
この両腕の憧れ、お前に憧れて
もし、この両腕でお前を抱きしめることが出来るなら、その歓びはいかばかりか・・・

(原詞 http://www.lyricsdepot.com/otis-redding/these-arms-of-mine.html )

These Arms Of Mine、歌ったのは Otis Redding。
21才の、まさに新しい才能が「シーン」に登場した瞬間でした。

この曲は 1962年の 10月に Staxの R&Bのサブ・レーベルたる Voltからリリースされ、翌1963年の 3月にはチャート・インしています。
ただし、この曲は Otis Reddingの初レコーディングではなかったようで、それは 1960年、Otis and The Shooters.という名義で行われていますが、実質的には Johnny Jenkinsの the Pinetoppersそのものだったようです(曲名など詳しいことはこちらで)。

Otis Reddingは 1941年の 9月 9日、Georgia州の州都 Atlantaからおよそ 200km南、State Highway 520沿いの Dawsonで生まれました。
彼が 5才の時に家族は Maconの the Tindal Heights Housing Projectという(おそらくは、低所得者層のための供給住宅ではないかと思われますが)住宅地区に移っています。
彼の父は Robins空軍基地で働き、週末には the Vineville Baptist Churchの牧師(キリスト教の各宗派における呼称の区別には詳しくないので、あるいは司祭、神父、などの方がふさわしいのかも?原資料でも preacherと ministerの両方が使われてます)でもあったようです。
Otisはその教会の聖歌隊で歌い始めました。ただ、彼の少年時代、父は病に臥せっていた、という資料もあるようですが。
その後 Bellevueという Macon西郊の土地に掘っ立小屋みたいな家を建ててしばらく暮らしていますが、そこが火事で燃えてしまったため、ふたたび Tindal Heightsに戻っています。
Ballad Hudson High Schoolの第10学年で(日本でいう高 1かな?)おそらく家計を助けるためにドロップ・アウトして Little Richardのバンド the Upsettersで働き(資料では Play;演奏とは書いてないのでローディーや兼ドライヴァーあたりだったのでしょか?)家には週 25ドルを送っていました。
また、当時 Gladys Williams(このひとについてはよく判りません。地方の名士でしょか?お名前からすると女性のようですが)が主催していた Sunday night talent show(それが正式名称ではなさそうですが、賞金は 5ドルでした)では 15週連続で勝ち抜き、それ以上の出場を断られたのだとか。
1959年には the Grand Duke Clubで歌い始め、1960年からは Johnny Jenkins and The Pinetoppersにヴォーカルとして加わり、その地方では有名だった D.J.の Hamp Swainによって、土曜日の朝に the Roxy Theater(後には the Douglas Theatreに)で行われていた『Teenage Party』タレント・ショーに出演したほか、バンドで南部一帯をツアーし始めます(前述の初録音もね)。
なお、彼が妻の Zelma Atwoodに出合ったのが 1959年で結婚は 1961年の 8月でした。この夫婦の間には三人の子供が生まれ、Dexter、Karla、Otis IIIそして実はもうひとり、Demetriaがいるのですが、この次女は Otisの死後に養子となったものです。

1962年のこの「These Arms Of Mine」は Johnny Jenkins and The Pinetoppersのセッティングをそのまま流用したものだったようですが、それが R&Bの大ヒットとなり、1961年に新設された Staxのセカンド・レーベル Voltを大いに潤したことにより、それ以降は Staxのハウス・バンドたる Booker T. and The MGsがフルにサポートをすることとなりました。
続いて録音された「That's What My Heart Needs」、「Pain In My Heart」、そして「Chained and Bound」は同様に目ざましいヒットとなりましたが、1965年初頭の「Mr. Pitiful」ではその勢いがやや衰え、まあまあのヒットに収まったようです。とは言ってもそれは「売れない」ミュージシャンから見れば、そんだけ売れたら死んでもいい!なんて思わせるくらいの売れ行きだったようですが。

その間、Staxは Otis Reddingのみに集中していたワケではもちろんなく、1963年にはあの Rufus Thomasが新路線に踏み出した「The Dog」、そして「Walking The Dog」、さらに「Can Your Monkey Do The Dog」を連発しております。

ところで、そもそも Otis Reddingをこの Staxへと導いた張本人(?) Johnny Jenkinsさんはその後どーなったんでしょか?
そのバンド The Pinetoppersから Otis Reddingという不世出のスターを送り出した後、資料では「Jenkins declined, ironically, because he didn't like air travel.」と描かれております。
そ、どーやら彼は大の「ヒコーキ嫌い」だったようで、(そればっかりじゃないにしても)それじゃ全国ツアーやらセールス・プロモーションなんて夢のまた夢・・・
でも、彼のギター・ワークはまだ若かったころの Jimi Hendrixに影響を与えた、なんて話もあるんですよ。

ま、それはともかく、1970年には Capricornにとっては初めてリリースしたアルバムとなった Ton Ton Macouteを吹き込み、一部ではレビューで採り上げられたりもしたのですが、Phil Walden(実は一時期、Otis Reddingのマネージャーもしてるんですよね。でもコイツの伝記だと「Otis Reddingはたしかにタダモノじゃなかったが、Phil & Alanの Walden兄弟が、ローカルなタレント・ショーのチャンピオンに過ぎなかった彼を世界に送り出した」なんてあるのを見ると、おいおい、そりゃあ違うだろ!とツッコミたくなりますなあ。いるよね、こうゆうなんでも自分の手柄みたく語るヤツ)はそこでバッキングを務めたオールマンの方に興味を移してしまいます。
1975年にはもう一枚レコーディングしたのですが、どうやらいまだにリリースされていないようで、それにムカついた(?)彼は家族を連れて Maconに引っ込んでしまったのでした。
しかし 1996年には新生 Capricornレーベルに Blessed Blues(バックには Chuck Leavellの keyboards、リズムには Muscle Shoalsから Mickey Buckinsを迎えて)を吹き込み、さらにブルース度を高めたそのアルバムは W.C.Handy Awardの候補にもなっています。さらにその後、Mean Old World Recordsからアルバム Handle With Careをリリース。

生涯を通じて、フルタイムのプロ・ミュージシャンになろうとはせず常に「昼の仕事」を持ち続けた男。
家族を置いてツアーに出るなんてことを考えもしなかった男。
そのデビュー・アルバムは Allman Brothersがバックを務めていることで知られている男。
あの Otis Reddingを自分のバンドの運転手兼ヴォーカルにしていた男。
その Otisがブレイクしてバック・バンドに誘われたのにそれを断った男・・・

結局 Johnny Jenkinsは栄光よりも、家族との日常を選んだのかもしれません。彼にとっては 1969年に New Yorkの Steve Paulのクラブで Jimi Hendrixと「組んで」共演したことだってそれほど重要なことじゃなかったのかも。

Al Bell

およそ Booker T. and the MG'sに始まり、Carla Thomasから The Mar-Keys、そして Otis Reddingと続いて来た Stax Recordsの成功は、自然と、さらなるミュージシャンを惹きつけることとなります。
その中には Sam & Daveと Wilson Pickettがいました。そのふたつは Atlanticによってもたらされたものですが、Stax自身も William Bellや、Knock On Woodの Eddie Floyd、the Mad-Lads、さらにプロデューサーでありソングライターでもあるデュオ、Isaac Hayesと David Porterを獲得しています。
しかしその前に Staxにとってはもっと重要な人事があったのです。
それは Eddie Floydのところでも名前が出てきた Washington D.C.の黒人 D.J.にしてレーベル・オーナーでもあった Al Bellを国内セールスの責任者として迎えいれることが出来たことでした。
1965年に彼がその任に着くや、たちまちにリーダーシップを発揮して成果を上げ、それによって所属ミュージシャンも増えた、と言っても良いかもしれません。そして、彼は未来の Staxにおいても重要な存在となっていくのです。

このころ、Sam & Daveが登場し、さっそく Isaac Hayesと David Porterは彼らをものにしました。
「I Take What I Want」、「Soul Man」、「You Don't Know Like I Know」、「Said I Wasn't Gonna Tell Nobody」、「Hold On, I'm Coming」などのヒットが連続し、さらにその翌年 1966年には前述の Eddie Floydの Knock On Wood、Carla Thomasの B-A-B-Y、Albert Kingの Crosscut Saw、また Sam & Daveで You Got Me Hummin'・・・しかし「悲劇」は静かに近付きつつあったのですが。

翌1967年はヨーロッパ・ツアーや the Monterrey Pop Festivalなどで華やかな年でもありました。Otisのツアーでバッキングを務める the Bar-Kaysにまで Soul Fingerというヒットが生まれています。

Lake Monona

そして運命の 12月10日、Otis Reddingと The Bar-Kaysが乗り込んだ双発のビーチクラフト機は Wisconsin州 Madisonの、周囲およそ 21km、最も深いところで 22.6mという Lake Mononaに墜落し、天空にひときわ輝いていた大きな星は失われてしまったのでした。
皮肉にも彼の最期のシングルとなってしまった The Dock of the Bayはこの悲劇によってさらに注目され、R&Bおよびポップスの両チャートで 1位になる、彼にとっての最大のヒットとなるのです。

しかし Staxにとっての本当の悲劇はその後に来たのかもしれません。
Atlanticとの間で締結されていた契約が期間満了となり、再締結の交渉をする必要があったのですが、そこで Jim Stewartはこれまでの作品の所有権が「すべて」 Atlanticに帰属することになっていることに気付き、戦慄することとなりました。
それを取り戻そうとする交渉は泥沼に入り、いずれにしても「気付くのが遅かった」 Staxにはもはや打つ手は無かったのです。
こうして Otis Reddingを始めとする多くのミュージシャンの版権は Staxの手から奪い盗られてしまったのでした。
結局、Atlanticの言いなりになって隷属する、というかわりに Staxは映画会社 Gulf and Westernに株を売却して数百万ドルを得ています。
この決断は Jim Stewartと Estelle Axton、そしてもはや重役となっていた Al Bellの合意によっており、形の上では「雇われ」社長と重役という地位になりました。

Gulf and Western

その後の 2年間は Staxにとってかなりの努力が必要だったことでしょう。
当面の「稼ぎ頭」を失って低迷する売上で持ちこたえなければならない、という社内事情に加え、外圧としては筆頭株主となった Gulf and Westernからの干渉、とまさに「内憂外患」というコトバがピッタリ来るような日々だったハズです。
しかし Staxの経営陣─ Jim Stewartと Al Bell─は株を買い戻すことを目的に努力を続けます。
1969年には Al Bellの主導で「攻め」のリリース・キャンペーンを開始し、ピーク時には一ヶ月でアルバム 27枚、シングル 30枚を投入。
Booker T.の Time is Tight、Johnnie Taylorの Who's Making Love、さらに Isaac Hayesの一連のヒットのハシリとなった Hot Buttered Soulは「トリプル・プラチナ・ディスク」という偉業を成しとげました。

Sun & Hi

さて、その間、Sam Phillipsの Sun Recordsはどうなっていたのでしょうか?1958年には Johnny Cashが Columbiaに去りますが Sam Phillipsは社屋を Madison街 639のワンブロックに移し近代的なスタジオを二つ新設しています。ただ、それとカンケーあるかどうかは「?」ですが、妻の Beckyと離婚し、1955年に入社していた Sally Wilbournと一緒に暮らし始めています。
1961年には Nashvilleにもスタジオを設けますが、1964年には売却してしまいます。
ナッシュヴィルでは American Federation of Musicianのガイドラインがレコーディングの時間当たりの曲数まで制限していたため嫌気がさしたもののようです。
Staxがブラック・ミュージックに集中して行ったのとは対象的に、どんどん R&Rに特化していった Sunでしたが、1960年代の中期からは Columbia/Capitol、あるいは Mercury、さらには Atlanticなどからも買収の話しが持ち掛けられるようになっていました。
Sam Phillipsは各種の条件を摺り合わせて検討した結果、1969年の 7月 1日に Shelby Singletonに Sun Recordsを売却しています。
もっとも、そんな Sunの退場に先だって、Memphisのミュージック・ビジネスには新規参入がありました。
1957年に Ray Harrisが 3ドル50セントの投資(これはたぶん会社登記の手数料のコトじゃないかと思うんですが定かではありません)で興した Hi Recordsがそれです。
そこには、かって Sunと Meteorのための制作に関わっていた Bill Cantrellと Quinton Claunchという二人も参加し、さらに彼らが声をかけた Joe Cuoghiという人物は Popular Tunesというレコード店を経営し、ジュークボックス事業も手がけていた事業家で、後には Hi Recordsの社長にまでなっています。
Hi Recordsの最初のヒットは 1959年、かって Sunでのプレスリーのセッションでは必ずバックでベースを弾いていた Bill Blackの the Bill Black Comboでした。
Ray Harrisとこの Bill Blackは、 Hiにおける 1960年代前半の基本的なリズムを決定した、と言って良いでしょう。
ところで、Staxでもセッションに参加しているトランペッター Willie Mitchellは、1961年に Hiでシングル「The Crawl」を出し、専属のホーン・アレンジャーとして、またセッション・メンバーとして the Hi Rhythm Sectionを組織し、それは Staxにおける Booker T.& MG'sに匹敵するものでした。
実際、初期においては Al Jacksonがドラムとして在籍したくらいですから。(このヘンの詳しいことは拙日記でどうぞ)

Columbia Records

Staxでは、ドリョクの甲斐あって(?)ようやく 1970年には Gulf and Westernからの株の買い戻しに成功し、そこからは the Soul Children、the Staple Singers、Frederick Knight、Jean Knight、Rance Allen、Mel and Tim、the Emotionsを次々と獲得して行きました。
さらに新設したコメディ部門のサブ・レーベル Parteeでは Richard Pryorのデビュー・アルバム『That Nigger's Crazy』をリリースしています。
この時期、他にも Gospel Truthや Hip、そして Respectというサブ・レーベルも発足させました。

とようやく立ち直った Staxでしたが、しかしさらなる波乱が前途に待ち受けていたのです。
1972年、Al Bellは Columbia Recordsとの間で Staxの供給契約を取り交わしました。
その時点で Columbiaは 6,000,000ドルを Staxに出資していますが、Al Bellはそれを原資として Jim Stewart個人の所有する株を買い上げる交渉に入りました。
結局 Jimは 5年間、社長の座に居続けることを許されたかわり、実質的な所有権を失ったのでした。そして、名目上の社長が誰であれ、実際には Al Bellが会社を運営してゆくこととなります。

でも波乱というのはそのことではないのですよ。

Clive Davis

ところで、Memphisにまつわる Soulのレーベルとして、実はもうひとつ、 Goldwaxという存在もあります。そちらについては気が向いたら(?)いつの日にか改めて採り上げるかもしれまへん(が、期待しないでねん。Goldwaxについてはワタクシ、まあ好みのモンダイっちゃあそれまでだけど、あまりプレゼンスを感じてないのですよ)。

Staxの Jim Stewartは Al Bellによって名目上の「社長」として、いわば名誉職に退いたワケですが、その背景には、Al Bellが自分の戦略が間違ってはいない、と確信するにいたった 1971年の Isaac Hayesのメガ・ヒット『Shaft』のサウンド・トラック(グラミーばかりか「オスカー」まで獲ってますからねえ)や 1972年の The Staple Singersの「I'll Take You There」に「Respect Yourself」、 Luther Ingramの「I Don't Want to be Right」の成功があったのではないでしょうか。
そのようなヒットを持っていることがディストリビュート契約を Columbiaと結ぶ際にも「有利」に働いたことは確かで、そのヘンの実務交渉で、この会社をシビアに運営して行けるのは自分だ、ま、言い方を変えれば Jimではダメだ、という実感を持ったからなのではないでしょうか?

ただ、この時の Columbiaとの交渉の成果はいささか奇妙なもので、当時の CBS側の資料ではそのへんを
『Columbia Recordsの社長、Clive Davisは、Staxからのレコードを市場に出した時点で、それが売れようが売れまいが「出荷分」の枚数に応じた支払いを Staxに対して行うよう、「有無を言わせず」命令した』 と表現しています。
確かに、これだけでは「出来高払い」じゃなく「見込み買い」だ、ってだけで、さほど問題にはなりません。しかし、普通ならこのスタイルを採る場合にはリスクを見込んで「それなり」に安く買うのがジョーシキなのに、後に Columbiaが是正したごとく(なんと、高過ぎる、ということで一挙に 40%もカットされています)それはあまりにも常識を外れた配分率だったようです。
ここで登場した当時の Columbiaの社長について、ちょっと道草をば・・・

Clive Davis; 1934年 4月 4日、New Yorkの Brooklynでユダヤ系のブルー・カラー(この場合の「カラー」は色の「 Color」じゃなく、シャツの襟の「 Collar」ざます。つまり日本で言うところの「サラリーマン」じゃなく、工場労働者を「ブルー・カラー」と言います)の家庭に生まれています。
決して恵まれた家庭環境とは言えなかったようですが、おそらく上昇思考に溢れていたのでしょうか、IVYリーグの名門、Harvardに進み、その Law Schoolで、奨学金を貰えるアヴェレージ B以上をキープするために、相当なドリョクを続けたようです。
そして無事 Harvardを卒業した彼はまず小さな法律事務所を開き、CBSを主要なクライアントとして持つ大きな事務所との仕事を始めています。
やがて彼は直接 CBS傘下の Columbia Recordsと関わるようになり、そこの経営陣は彼の商才とともに、音楽に対する情熱にも感銘を受けることになります。そのようにして Columbiaに入った彼は順調に出世の階段を昇り、1967年には、ついに CBSそのものの社長に就任しました。
その年の the Monterey International Pop Festivalにインスパイアされて彼はロック系のミュージシャン(ピンク・フロイド、ジャニス、サンタナ、ブルース・スプリングスティーンなど)を次々に獲得し、これがまた支持されて、Columbiaの市場でのシェアを 2倍に伸ばしています。
しかしそのさなかに会社資産の不正流用から彼個人の着服容疑に関して財務局の捜索を受け、CBSグループはそれが全社的問題に波及するのを恐れて 1973年に彼を解雇したのです。
この大きなつまずきにもかかわらず、彼の音楽に対しての情熱が冷めることは無く、1974年には Arista Recordsを設立しました。
結局、彼の金銭にまつわる疑惑に関しては、この資料ではそれ以上の追求はなされていません。はたして Al Bellとの間で、なんらかの密約や裏オプションがあったのか?などといったことはまったく判りませんでした。

どうです?1972年というのは、彼のケツに火がつく直前だったのですねえ。(その年は L.A.での『Wattstax』コンサートの年でもあったのですが)
1973年には、CBSは大量のレコードを発注し、当然 Clive Davisの取り決めに基づき、巨額の対価が Staxの金庫に流れ込むことになります。
その異常な金の流れはアメリカ国税庁の注意を惹き、さらに前述のとおり、Clive Davis個人の財務管理に関する疑惑とのからみもあって、財務局も乗り出し始めていた時に、現金 100,000ドルを空路で運ぼうとして空港のゲート・チェックで露見した社員がいたために Staxにも査察が入りました。
だって、誰が見ても裏バック・マージンでしょ、そんな現金を「人が運んでる」なんて。
判り易く言えば Columbiaは Staxに「かなり」高目の支払いを行うかわり、Al Bellはその中から密かに一部を Clive Davis個人に「還流」させるメカニズムを作っていたのではないか?という疑惑でしょう。

結局 CBSは Clive Davisの Columbia Records社長としての職を解いて追放(?)することで、グループ全体に疑惑が波及することをくいとめる策に出ます。さらにその Clive Davisが結んだ Staxとの契約を反故にし、一挙に 40%をカットし始めたのです。
これによって Staxの経営は急速に逼迫し、200人にも及ぶ従業員の給与、関連業者への支払いなどが停滞し、しかも、法廷では訴訟合戦が持ち上がっていました。
CBSが Staxを(おそらく Clive Davisとの契約の不公正について)訴え、逆に Staxは(おそらく一方的なカットに関して) CBSを訴え、Union Planters Bankは Staxの差し押さえと、(おそらく財務管理の不備について?) Stax、さらに CBS、Al Bellと Jim Stewartを訴え、逆に CBSは(おそらく差し押さえによる業務妨害で?) Union Plantersを起訴、といったまさに泥沼の法廷闘争の状態に陥っていきます。
その間も Staxの経営状態は悪化してゆき、ついに 1975年には Staxのためにレコードのプレスを請け負っていた会社からの請求にも完全に支払いが不能な状態となり、この時点で数百万ドルの債権を抱えていた Union Planters Bankは銀行に対する不正行為の疑いで Al Bellを連邦大陪審に起訴しました。
さらに Isaac Hayesも Staxを訴えています。そして Union Plantersは Staxの出版部門を「抵当流れ」として処分。
1975年12月19日、裁判所はついに Staxの「破産」を宣告。
翌1976年の 1月12日には、反訴も適わず閉鎖が決定し、ここに 1959年から 1975年にかけておよそ 300枚のアルバムと 800枚を超えるシングルを送り出した Staxの栄光の歴史が閉じてしまったのでした。

Fantasy Records

残っていた Staxのマスター・テープは 1977年に債務整理のためのオークションにかけられ、1,300,000ドルで Californiaの Fantasy Recordsに買い取られています。
また、かっての Stax Recording Studiosは 1981年に Union Plantersによって僅か 1ドルで Southside Church of God in Christに払い下げられ、同教会は 1989年にそれを取り壊しました。

Soulsville( http://www.soulsvilleusa.com/ )は 2000年に、跡地に Stax Museum of American Soul Musicの建設を発表しました。
当 bbsに投稿いただいた boonyさんによれば、一昨年に現地を訪れた時にはまだ工事中だったそうですが、↑の URLで見る限り、現在ではリッパに(?)完成してるみたいですね。

長々と追い掛けてまいりました Stax Recordsですが、ワタシが生まれて初めて自分で買ったホントの Bluesのレコード( Albert Kingの Blues Power)にはこの Staxのフィンガー・ティップスをする(たぶんね?)片手のマークがついておりました。それ以来 Staxには足を向けて寝てません(つーのはウソに決まってますが)。
今回はその Staxを、あえてビジネスというクールな側面から捉えてみました。ホ〜ント大人の世界ってフクザツ!

Alvertis Isbell

ところで Al Bellはどうなったのでしょうか?
1971年には Executive of the Year ( Bill Gavinによる Radioプログラム協議連盟による)を受け、続く 1972年と 1973年には連続して the National Business Leagueの選定する National Leadership Award を授賞。さらに 1975年には National Association for the Advancement of Colored People(全米黒人振興協会)によってNAACP Founder's Award 、1980年にはAmerica's Music and Entertainment of Fame に殿堂入り、1993年には Southeast Music ConferenceによってGospel Music Award of the Year 、続く 1994年には同賞の連続授賞の他NARM INDIE Best Seller Award も獲得、その後もthe W. C Handy Lifetime Achievement Award 、さらにthe Arkansas Black Hall of Fame にまで殿堂入りしています。

え?Arkansas州の黒人の「栄光の殿堂」?All Music Guideでは、たしか Al Bellって 1941年、Washington D.C.生まれ、ってなってましたよねえ。ま、悪い予感がして(?)それを鵜呑みすんのヤメてたんですが、別の資料じゃハッキリと Arkansas州 Monroe郡 Brinkley生まれ、本名 Alvertis Isbell(!)とあるじゃありませんか。どーやらそこで生まれたあと、5才の時に家族とともに Arkansas州 Pulaski郡の North Little Rockに移っているようです。
やはり All Music Guideはアテにならない!

Al Bell自身の言葉によると、彼は North Little Rockの Scipio A.Jones High Schoolに通い、やがて Little Rockの放送局 KOKYの D.J.となっています。
次いで Philander Smith Collegeに進み、進学コース(法科あるいは医科のため?)を専攻したようですが、この時期に彼は( Memphisの WLOKで常勤のディスクジョッキーになる前に) Martin Luther King牧師の主宰する南部キリスト教会議に関わることで脇道に逸れた、と言うことは出来るでしょう。
やがて、自身のレーベル Devoreをスタートさせた後、Memphisの Staxの設備を利用するようになったそうです。
しかし、1963年ころ(?) Bellは Washington D.C.の放送局に D.J.として移り、その間に客観的に Staxの「価値」を意識したのかもしれません。また、Eddie Floyd側の資料によれば、この時期に二人の交際が始まっているようです。
おそらく D.J.としての付き合いから Staxの Jim Stewartとのコネクションが発生したのでしょう。Bellによれば、Jimは度々意見を求めた、と言いますから、そこから Staxの A&Rマンとなるのは「必然」だったようです。

Another Story

さて、Al Bellこと Alvertis Isbellのインタビューの資料に出あったのですが、イチバン知りたかったカネにまつわる辺りのハナシはやはり、これまた濃ゆい霧の中なのでございますよ。
まあ、考えてみりゃあ、ヘタなコト言うと、遡って「脱税」なんぞの嫌疑をかけられたりしちゃあたまりまへんからねえ。そのヘンはムリもないんでしょうが。

それでも、彼が Staxに誘われたあたりの彼の側からの事情説明は(無条件で信用するのはちとキケンもあると思いますが)また違った「位相」を見せてくれます。
つまり、これまでの資料では、Staxの Jim Stewartによって招かれたような形となっておりましたが、ここでは、その Jim Stewartはもちろんですが、なんと Atlanticの Jerry Wexlerからも依頼があったようなんですねえ。
Jim Stewartは正直に会社がほぼ 90,000ドルの欠損で破産の危機に瀕していること、そこで、キミ(つまり Al Bellですな)をソンケーしてる国中の D.J.がレコードを買ってくれるようになるハズなんで頼む、なんとかウチに来てくれ、とゆーハナシがあって、そこでは、ちょっと妻と相談する、と逃げたらしいんですが、後日、Jerry Wexlerに呼ばれて Atlanticで会見した際に、jim Stewartと Jerry Wexlerの間で合意した事項として、両者がそれぞれ週に 100ドル、つまり合わせて 200ドルが毎週 Al Bellに支払われる、という点が伝えられました。
Al Bell自身は Staxが扱っていた音楽に興味(あるいはそれ以上の「愛情」かも?)があったので、その条件で Staxへの参加を決定したようですが、それを聞いた奥さんはかなりブーたれたそうです。
その時点で彼の年収はおよそ数十万ドルにのぼってましたが、週 200ドルでは一万をやっと超える程度にしかならないですからねえ。(ただし、当時、数十万ドルという年収は、それを裏付ける客観的な資料や、周囲からの証言が提示されているワケではありません)

しかし。最も重要なのは、彼が事業を好転させることに成功したら、彼に会社の所有権の一部を与える、という「諒解」が合意され、それについて一筆残された、という点かもしれません。

Little Rock

その当時のレコード産業での常識としては、ブラック・ミュージックの場合、アルバムでは約 30,000枚、シングルでは 300,000枚のセールスが限度と見なされていました。
Bellの考える黒人の所有するマルチメディアの会社、という壮大なヴィジョンが実現する見込みはまったく無さそうに思われていたのです。
しかし Staxは Sam & Dave、Johnnie Taylor、Carla Thomas、Otis Redding などによってシングルで百万枚以上、アルバムもそれに迫る枚数を売ることが出来ました。Bellの野望はあながち荒唐無稽なもの、とは言えなくなって来たのです。
彼はもちろん販売促進にまつわる一切を主要な任務としていたのですが、次第に制作現場にも興味を持つようになりました。
ただ、彼自身は自分の音楽的な才能は皆無である、と考えていたらしく、スタジオでプロデュースをしよう、という気もなく、一方ミュージシャンの方でも彼にそれを望む者はいなかったようです。
ただ、Little Rockでの D.J.生活を通じて「聴く耳」だけは養成されていたようで、その上で Jim Stewartが実際に現場でどのようなことを行っているのか、そして Jimmy Reedや Ella Fitzgeraldなどのミュージシャンのセッションに触れるなどして次第に技術的な部分にも通じるようになって行きます。そのベンキョーの成果は 1967年の Issac Hayesの Hot Buttered Soul で実を結びました。そして、Little Rockの KOKY時代にはもう出会っていた The Staples Singersのプロデュースは、彼の手腕がもっとも良く発揮されたと言われているようです。実際、Al Bellが Staxで最初に獲得に動いたのがこの the Staples Singersで、でもそのころはまだプロデューサーではなかったため、スティーヴ・クロッパーが当初はプロデューサーとして担当していました。

Louis Isbell

当時 Robinson Auditoriumと呼ばれた場所で the Staples Singers、Aretha Franklin、the Rev. C.L. Franklin、the Swanee Quintet、Sammy Bryantなどのセッションは行われました。
そのようにしてレコーディング・スケジュールが立て込んでくると、レコーディングも様々な場所で行われるようになり、それに伴ってマスター・テープが社外で保管されるケースも増えて行きます。有名な例では Alabamaの Muscle Shoalsなどですね。

ただ、the Staples Singers 1972年の R&B/Popsの両チャートを制した「I'll Take You There」の裏には Al Bellの兄弟 Louis Isbellの尋常ではない状況での死( getting killedと表現されているので「殺害された」ということだと思われます)がある、みたいなことが資料にはあるのですが、実際にはどのような状況でどのような事件が発生したのか、についての具体的な著述は含まれておらず、いや、それどころか、不合理な状況で失った兄弟は三人である、と記されております。もちろん、その他の兄弟の死に関しても詳しいことは判りませんでした。

そして兄弟と言えば、もうひとり、Paul Isbellの名が資料には登場しています。
それは Staxが Atlanticと袂を分かち、CBSとの供給契約の下にあった時期のこと、ある時期から、Staxからは製品が CBSに渡されているのに、第一線の小売業者からは製品が「来ない」というクレームが続出するようになったとき、Al Bellは兄弟の Paulに小売業者に直接面談して、その経緯を探って来るように依頼しました。
と言っても、それはさらに先のこと。ともかく the Staples Singersの「I'll Take You There」には、不慮の死を遂げた Louis Isbellについての憶い出や、彼の「思い」が盛り込まれていたようです。マスルショールズでのレコーディングの最後に、実はこんな曲があるんだが・・・という形でいきなり出したのだとか。

Paul Isbell

ある意味で彼の周辺がおぼろげながら判明してくるにつけ、また新たなナゾが立ち現れて来てるよな気がしますねえ。
彼の兄弟たちに一体なにが起きたのか?それは彼らが黒人であることに関係しているのかいないのか?

さて、そもそも Atlanticと Staxの間で取り交わされた基本契約そのものが Al Bellからすれば「とんでもない」ものだったようですが、当時の彼は Staxに A&Rマンとして入ったばかりで、そのような上層部の決定に口を挟める位置にはいませんでした。
Stax側では単にディストリビュートにおけるマージン配分の取り決め、と考えていたようですが、実際には Atlanticは Otis Reddingや Sam & Daveを含むすべてのマスターの権利を保有する形になっていたのです。
これはワタシ個人の推量の域を出ませんが、おそらく、この失敗を目の当たりにしたことが Al Bellをして Jim Stewartの経営手腕に対する疑念を抱かせた「始まり」だったのではないでしょうか?

結局 1972年に設立者のひとりだった Jim Stewartは Al Bellに完全に会社を譲渡し、名目上の社長に退いたのですが、Al Bellは 6,000,000ドルの出資と引き換えに CBS Inc.にディストリビュート権を渡します。

ここでの Clive Davisとの「取り決め」が実際にはどのようなものだったのかは、やはり新資料でも判るワケはありません。
Clive Davisがまだ社長だった間は「やや不鮮明な(?)」取り決めに基づき、曲がりなりにも出荷した製品への対価が Staxに流れ込んで来てはいたのですが、その間に Staxとしてはさらに積極的にプロモーションを行い、販売促進を進めていたものの、フシギなことに販売の現場からは、そのせっかくの「話題作」が店頭に「供給されて来ない」というクレームが頻繁に上がって来るようになったのです。
そこで Al Bellは自分の兄弟の Paul Isbellを派遣し、小売業界の実体を探らせることしました。その結果、判明したのは「やはり」ディストリビューターたる CBS Columbiaから製品が供給されて来ていない、という実態で、ことここに至って Stax経営陣は CBSとの契約に関してなにかしらマズいことが起きている、ということに気付いたのです。

18-wheelers

Al Bellによれば、この時期( Clive Davis後?)、支払いも滞り、ブツは持って行くのに、その対価がストップした状態が続いて Staxが危機感を強めていたさなか、18-wheelers(つまりアメリカの大型トレーラー・トラック)いっぱいの Staxの製品が送り出したそのままの梱包で送り返されて来たそうです。
そうなれば Staxがプレス業者などの下請けへの支払いなど、早晩その財政が逼迫するのは「必然」であった、と言えるでしょう。
「その頃にはまだ TOB─敵対的乗っ取りという言葉は無かったと思う。でも、つまりはそれだったんだな。製品の対価の支払いを待っていたこちらに彼らは製品を返す、という手に出て来た。こちらは 67,000,000ドルの CBSに対する独占禁止の訴訟をウデのいい法律事務所に依頼した」・・・でも、この Al Bellの試みも成功はしませんでした。もっとも Staxと Bellに対する訴訟もすべてポシャったようなので「痛み分け」となったみたいですが。

Al Bellの父親は優れた手腕によって地域に影響力を持った企業家であったようです。その父のありかたに企業人としての彼はかなり影響を受けていたようで、尊敬の対象でもあったようです。
Staxが極めて難しい局面に立たされていたときに、彼は父に 50,000ドルの援助を依頼しました。すると父は兄弟に托して翌日には 50,000ドルを Memphisに届けてくれたのでした。
1959年に地方の小レーベルとして始まった Staxは 1974年には「黒人の経営する」五指に入る大企業となっていたのです。実際にはもはやガタガタになっていたとしても・・・

資料によれば、(もし事実だとすれば、ですが) CBSとの間で、驚くべき「いきさつ」があったようです。
CBSは Al Bellとの交渉の過程で、率直に「独占禁止法」に抵触するために CBSは結局 Staxを買うことが出来なくなったことを告げ、替わりに彼を CBSの副社長にして 15,000,000ドルを支払い、彼に Staxの所有権と収益のそれぞれ約 2パーセントを保証する、という提案を出してきたのだとか。
それが事実だとすれば、TOBの可能性を封じられた CBSが、一応 Staxを見限り、彼の黒人ミュージシャンとのコネクションを利用するために Al Bellに接近した、ということでしょうか?

Rimrock Records

CBS側の考えた Bellの利用価値としては、新たな黒人のミュージシャンを獲得する際にも、彼の声望があれば、巨額の契約金を支払わずとも自然に集まってくるだろうから、きわめて莫大な「節約効果」が見込めるところにあった、と言われています。
ただし Al Bellの返答は「否」だったようですが。
つまり、本来ならばそのアーティストに帰すべき契約金が(そこに Al Bell自身も含まれるとは言え)おエラいエグゼクティヴどもの私腹を肥やすだけになるワケですから、インタビューでは「 I'm not going to be a Judas.」、ユダにはならない、と答えたみたいです。

しかし、どのみち Staxは手に余る問題を抱えて頓挫する運命にありました。
当時 AL Bellはプレスの下請けとして Arkansas州 Concordの Wayne Raneyと Loys Raney( Wolf Bayou生まれのカントリーのスターでハーモニカ奏者)の Rimrock Recordsを使っていましたが、その会社を買いとって資産面で有利な状況に持ち込もうとしたようですが、あいにくと、その工場は Staxにとっては小さ過ぎ、結局必要なプレス(つまりレコード製品ですな)を供給するには至りませんでした。

このように Stax末期の、なんとか会社を存続させられないか、ともがいていた彼には、実は別な側面もあったようで、それは「政治」とのかかわり、と言うことが出来ます。
インタビューによれば「私は当時の Arkansas州知事 Winthrop Rockefellerと非常に密接に動いていました。それは、出資関係が許すならば Staxを Memphisから Arkansas州 Little Rockに移転させようと思っていたのです。しかし、そのさなかの 1973年 2月22日、Rockefellerが亡くなってしまったのでその計画も無に帰したのでした。」
また後にももういちど Arkansas地方政治との関連について語っています。
「 1978年にはふたたび Arkansas州に戻りました。それはちょうど Bill Clintonが初めて州知事に立候補した時のことで、彼と歓談したときに、彼もまた、ここ Arkansasにそのような音楽産業があってもいいし、その種の企業が移転を計画するのであれば、様々な面で歓迎する、との主旨の発言をしてくれました。しかし実際には、彼は期待された役割を果たすことが出来ませんでした。それを支えるべき地元財界に明確なヴィジョンを持って将来を見据える視点が無かったせいかもしれません。私は結局そこを後にして南 Californiaへと発つことにしたのです」
う〜ん、彼としては、なんとか Arkansasの地元資本からの出資を募り、Staxを Little Rockの地で「再生」させたかったんでしょうね。それでも結局また彼は North Little Rockに戻って来ます。Bryantのそばにスタジオを持つ独立したレーベル Alpine Recordsを息子および他のパートナーたちと設立したのです。

Berry Gordy Jr.

ただし、この時期の彼について別な資料では Little Rockで時たまシングルをリリースするなどしていた、とあるのですが、ウェスト・コーストの件も出てこないし(ってゆうか、それは 1990年代のハナシとして出てくるのですが)そちらでは Alpine自体登場してきません。どーなってんのじゃいったい?
ま、それはともかく、Al Bellは Berry Gordy Jr.に請われ 1980年代後期に Motown Recordsの社長に就任しています。
ただし 1988年には MCAと Massachusettsの持株会社 Boston Venturesに Motown Recordsは売却されました。その間、彼は Bobby "Blue" Blandのプロデュースをアレンジャーの Monk Higginsとともに手がけていたようです。

1990年代に入ると彼は Los Angelesに自分の会社 Al Bell Marketingを設立しています。 それはやがて Bellmark Recordsとなり、the Dells、the Next Movement、Rance Allen、そしてBow Wow が遺作となってしまった Johnny Guitar Watsonなどを抱えていました。しかし、そこでの大ヒットはラップの Tag Teamの Whoomp! で、quad platinum、つまりプラティナ・ディスクの 4倍!R&Bチャート 1位、ポップス・チャート 2位を 7週続けたメガ・ヒットとなっています。

Alpine Records

さて、インタビューで言う、「西海岸から North Little Rockに帰って来た」のが、この後のことなら、その後 Alpine Recordsを作った、となるのですが、カンジンのそこらへんの年代が付されていないため、またしても「?」が残ってしまいました。
ま、でも最初の本篇からすっと、イロんなことが見えてきたからまあ、いいとすっか?
他にもマーティン・ルーサー・キング師とともに「行進」に参加した、とか「公民権運動」との関わりを匂わせる記述もあったりするんですが、その資料ではその一節が唐突に出てくるものの「だからどーだったのか」が欠落しておるため、さらなる調査が必要でございましょう。
またどこかの資料で出くわすことがあったら、ふたたび追跡(?)を始めたいと思っています。

go, go! go Johnnie go!